細野先生は 1899年(明治32年)8月1日、京都府綾部市梅迫という日本海に面した舞鶴市に近い、草深い田舎で生まれています。
世紀の世紀末で、列強ロシアとの仲が次第に険悪になってきている頃で漢方医学が明治政府により葬り去られ、漢方の暗黒時代に突入した頃でした。
当時の日本は総じて貧しい家庭が殆どでしたが、細野先生の家庭も貧しく、小学校を卒 業しても上級学校に進学することは夢の又夢というような状況でした。
そんな中で尋常高など小学校2年の時に母親の急逝に会い、医者になろうと決心されたようです。
ところが 赤貧洗うがごとくの状態で、学費を工面するのも大変苦労しましたが、「天網恢々粗にして 失わず」の老子の言葉の如く、細野史郎先生には次々と支援者が現れ、無事に中学校、第三高等学校、京都帝国大学医学部とすすみ、昭和2年大学を卒業して医師になることが出来ま した。
京都市左京区鹿ヶ谷で開業する傍ら、大学の松尾内科で胆石症の研究を続け、昭和7年 医学博士の学位を授与されています。
1933年(昭和8年)、長男の小児喘息の治療に困窮し、西洋医学治療は勿論、色々な治 療を試しましたが治りません。苦心惨憺のすえ漢方薬にてやっと緩解に持ち込むことが出
来ました。この経験で漢方医学の有効性を実感し、以後漢方の研究を決意しました。
漢方は当時京都市左京区一乗寺で開業していた新妻良輔先生に弟子入りして勉強しまし た。
新妻良輔先生の父、新妻荘五郎先生は幕末から明治にかけて活躍した浅田宗伯の高弟で、浅田流漢方を京都で実践された人でした。
浅田流漢方が新妻荘五郎先生から息子の良輔氏そして細野史郎先生へと伝えられて今日に至っています。
細野史郎先生は浅田宗伯の曾孫弟子 にあたります。
細野史郎先生は当時すでに西洋医学の名医として名前が知られていたようですが、その西洋医学を捨てて漢方の道にはいることは大変勇気の要ることでありました。
当時の苦悩する 心境を『聖光園五十年史』 に書いておられますので、一部をここに紹介します。
ある夜、自宅にほど近い若王子の滝のほとりに端座瞑目、水しぶきの音に聴き入っていた とき、ふと心中に光明を覚えたのであった。それは、一切の世の毀誉褒貶を没却して初心 に徹し、目的に邁進することこそ浮かぶ瀬もある、との悟りであった。ここに於いて、私は勇猛心を発揮して、現代医学を基礎とした漢方医学に没入し、それにより医者の使命に 徹すべきとの決断に奮い立った」
と記載しています。
1938年(昭和13年) のことでありました。これ以後細野先生は漢 方医学治療に完全に没入されて行きました。
細野先生は大勢のお弟子さんを育てられました。医師としては娘婿の坂口弘、長男の細野八郎を筆頭に内炭精一、柴田良治、有地滋など、日本東洋医学会を支える数多くの人材 が細野先生の下から輩出しました。
細野先生のお弟子さんで特徴的なのは薬剤師の人も非常に多かったことです。
細野先生は漢方治療は品質のよい漢方生薬を使わなければ意味が ないと考え、良品質の漢方生薬原料を見分けて医師に供給してくれるようにと薬剤師の教育にも熱を入れておられました。
入手できる最高の漢薬原料を用いるというのが細野史郎先生 の信条でした。
細野史郎先生の業績について語るには時間はいくらあっても足りないほどですが、一言で言えば漢方の近代化への貢献といえます。
先ず挙げなければならないのは 「漢方薬の薬理研究の道を開拓されたこと」 です。
当時 は漢方薬の効果のあることは経験で理解できても、どのように作用しているのか科学的な根拠は全くない状態でした。
細野史郎先生はこのような状態では漢方治療に発展はないと考え、 弟子の坂口、内炭両氏を大学の薬理学教室に派遣して薬理の実験方法を習得させ、診療所 内に実験室を作り漢方薬の薬理作用の解明に着手しました。
そしてウサギ摘出腸管を用い て芍薬甘草湯の薬理作用を明らかにし、それを昭和27年4月の第3回日本東洋医学会学術 総会で発表しました。
このとき東大の板倉博士が壇上まで上がってきて細野先生に握手を求め、「これで漢方に 夜明けが来た!」と発表を絶賛されたと聞いています。
漢方医学に近代科学のメスを入れ た画期的な研究でした。
細野史郎先生は漢方薬理が明らかになれば、難しい証の診断をしなく ても西洋医学的診断だけで十分漢方薬が使えるようになると常々云っておられました。
細野先生の今ひとつの画期的な業績は 「漢方薬のエキス製剤の開発と臨床応用への道を 開いたこと」です。
エキス製剤の構想は当時武田薬品におられた渡邉武薬学博士が抱いて おられ、それを聞いた細野先生は 「漢方の近代化に是非必要なことだ」と考え、エキス製 剤の共同研究をしようと、日本東洋医学会理事会で提案されました。
しかしながら理事会 では間中喜雄先生一人が賛成しただけで、あとの全員に反対され、共同研究の実現は出来ませんでした。
「それなら診療所だけで研究する」 と言って診療所内にエキス製剤製造部を創設して、 エキス剤の製造と臨床研究に入りました。1951年(昭和26年)のことです。
以後試作を重ね、煎じ薬と殆ど遜色のないエキス製剤を製造できるようになり、1955年 (昭和30年)に用いる全ての処方をエキス製剤化し、
全面的にエキス製剤による漢方治療 に入りました。
エキス製剤の出現により日本における漢方治療が大きく変革し、漢方治療が日本国内に 浸透し、今日の隆盛を来すに至っています。
品質の安定したエキス製剤の出現により漢方の基礎及び臨床研究が非常にやりやすくなりました。
この結果漢方の EBM が急速に蓄積されてきています。
また携行に便利となり、出張や旅行にも漢方薬を持ってゆけるようになり、患者さん方 から大変喜ばれました。
細野史郎先生はご自分も水毒体質であったためか、水毒の治療を得意にしておられました。
特に脚気及び脚気症候群の診断と治療は大の得意でありました。
用いる処方は五苓散合九 味檳榔湯加呉茱萸木瓜でした。浅田家方九味檳榔湯加呉茱萸茯苓に木瓜を加えそれを細野 家方九味檳榔湯としていましたが、それに五苓散を合方した処方です。
水毒証の疲労倦怠 感には非常によく効く処方です。
細野史郎先生が工夫された細野家方清暑益気湯も熱中症の予防と治療その他の各種 の疲労の治療に有効な処方です。アスリートの疲労の予防と回復にもよく効く処方で、野外運動に必携の処方となっています。
喘息の治療に頻用されている柴朴湯も細野史郎先生が命名された処方で、細野家宝の一つとなっています。
昭和に於ける日本漢方の復興と発展に大きく寄与された細野先生は昭和天皇の亡くなら れた同じ年の5月6日早暁、華子夫人と長男八郎氏に見守られ自宅で息を引き取られまし た。満 90歳を迎える3カ月前のことでした。