私は、東京の大学にて漢方を教えていた時期がありました。3年ほど前まで5年間ほど担当しておりました。計12回の講義のうち、歴史・総論・各論と続き、傷寒論の処方解説と言った内容でした。しかし、初回の歴史はどうも不評あるいは興味の湧かない内容であった様で、少し残念に思っておりました。その中に、流派に関する内容も含まれていました。
まず初めに、漢方と言う言葉が一人歩きしている様に感じますので断っておきますが、漢方は日本の伝統医学であり、日本が発祥の地なのです。えっ?中国でないのと思われる方いらっしゃると思いますが、似て非なる物です。中国は中国で伝統医学があり、中医学と言う名称になります。
そこで、漢方の流派ですが、大きく分けて3つ(後世方派、古方派、折衷派)あります。
後世方派(または後方派)は、田代三喜が明で学んだ金・元医学を1498年に帰国後に広め、その後曲直瀬道三ががさらに広めたのが始まりとされています。そのため、曲直瀬道三は日本医学中興の祖と言われています。金・元医学は、治療の原則を木火土金水の五行論や陰陽論に則った学問です。そして、一番重要な点はそれまでの日本の医学は、大陸の医学の真似事で、曲直瀬道三が初めて系統立てて整理し学問にしたことにあります。
古方派は、五行論や陰陽論を真っ向から否定し、治療の原則を大昔の古典である傷寒論と金匱要略に求めたことにあります。鍵と鍵穴に例えられることが多い(実際には少し違うが)ですが、こういった症候群にはこの様な処方群を用いるという言わば経験則に頼ることが大きいのです。古方派の代表的な医者に吉益東洞がいます。広島生まれで、京都は東洞院通りにて開業していました。「薬というものはすべて毒だから、毒をもって毒を制する、そうすれば毒が排出されて体調が良くなる」と言う万病一毒説を唱え、非常に攻撃的な治療を行いました(全ての古方派の医者がそうではありません)
折衷派は、治療の原則は古方派に求めるが、それでもうまくいかなければ後世方派の医学も取り入れると言う、柔軟な考えを持っています。実は、この考えが日本の普通の保険診療で処方される漢方薬の大部分を占めています。代表的な医師に、幕末から明治初期に活躍した浅田宗伯がいる。浅田宗伯は、明治政府が漢方を禁止したのを何とか残そうと運動を起こしたことでも知られています。また、私の祖父の細野史郎は浅田宗伯の孫弟子にあたります。